令和の奥会津風土記〜むらをあるく〜 新・奥会津だより「Flow」

●はじめに

既に、会津学研究会さんの活動をご存知の方や、今まで「奥会津だより」をご覧になった読者の皆さんには、今更な説明になるかもしれませんが、新しい読者の皆さんに向けて、少しだけご紹介します。

「令和の奥会津風土記〜むらをあるく〜」は、会津学研究会(会長:菅家博昭/事務局:奥会津書房)のみなさんと一緒に、文化6年(1809年)に会津藩がまとめた「新編会津風土記」をもとに、記載されている内容を、各集落を実際にフィールドワークをしながら調査・考察していきます。執筆者は、同研究会会長の菅家さんです。

会津学研究会は、会津地域の歴史文化を、地域のみなさん自らの足での調査・研究をしていくという手法で様々な活動をされてきました。奥会津地域に関しては、前号までの「奥会津だより」でも連載されましたが、「新編会津風土記」をもとにして、学習院大学教授(元福島県立博物館館長)の赤坂憲雄先生の見識やアドバイスをいただきながら、むらあるき(集落調査)を行なってきました。

200年も前に書かれた「新編会津風土記」は、写本としていくつか活字化されています。「国立国会図書館デジタルコレクション」には、明治時代に出版された13巻のうち12巻がデジタル化で収められており、近年では、歴史春秋出版より「新編会津風土記(全5巻)」として出版もされています。ぜひ、ご興味のある方、歴史の1ページを開いてみてください。

 

「只見町(只見地区)」 ひとつの祠(ほこら)に祀(まつ)られた山神と水神

<<編集部による雑記帳>>

●集落調査(フィールドワーク)とは、現場に残された「小さな記憶」を確実に自ら理解すること

今回の「むらあるき」は、只見町の只見地区。只見町はかなり広い町ですが、今回は只見駅周辺の地域の集落調査を行ないました。只見川と伊南川の合流地点、新潟市といわき市を結ぶ国道289号線と新潟県柏崎市から会津若松市を結ぶ国道252号の交差する場所です。Googleマップでいうとこのあたりです。

朝9時、只見町ブナセンター集合。あいにくの雨天。

まず今回の参加者の皆さんへ雨の当たらないところで「むらあるき」の事務局を担当される奥会津書房の遠藤さんが資料を配布。続いて会津学研究会会長の菅家さんが、今回のフィールドワークの趣旨を、只見町発行(鈴木克彦著)の「川と水の物語」を参考資料にして説明をはじめます。

「水神と山神が一緒の祠(ほこら)に祀(まつ)られ、入り口が2つあるものは只見以外には見られない珍しいものらしい。なぜ只見では水神と山神が同じ祠に祀られているのか、参加者それぞれで考えながら歩いて欲しい。」
とのこと。今回は集落調査はしない只見町の他地域の資料も配布され、弥生時代や中世時代の遺跡から、伊南川沿いに昔から人の営みがあったこと等の説明をされた。

とにかく、菅家さんのお話は情報量が豊富。今までコツコツと積み上げてきた情報から、明らかになった事実と仮説を明確にわけながら次から次へと言葉が飛び出す。今回は、今年度最初のフィードワークだったこともあって、内容の濃い説明で、配布資料の余白に書いていたメモが溢れるほど。

事前に菅家さんから配られた集落調査(フィールドワーク)の目的が書かれたメモにはこんなことが書かれていました。 「フィールドワークは、集落と、関連する集落との全体像を見るために行う。石祠、石造物などの記憶の装置、祈りの対象が置かれた場所、周囲、樹木等、そして、それを管理されている人々(家との距離)を現場で体現する。」として、各場所に残されたものやそれを維持する人々の想いを確認することで、小さな記憶(基層文化)の意味を現場で考えることが重要だ、と。

説明を受け、周りの山々や集落を見渡しながら、水神と山神が一緒の意味をぼんやりと考えたのですが、その理由が全く思い浮かびません。理由のヒントを求めて調査へ向かいます。

●集落調査(フィールドワーク)スタート!

「新・奥会津だより『Flow』」の誌面では、構成の関係上のためか、菅家さんは訪問順に書かれませんでした。が、私の記憶があいまいになっていますので、以下、訪問順に書いていきます。

ブナセンターを後に最初の祠へ向かいます。歩いて数分、現地到着。

伸びきった植え込みがあって、その生い茂った植え込みの中に祠が。山神と水神が同じ祠に祀られているという言葉を聞いただけでは、非常にぼんやりとしたイメージでしたが、実物を見てその意味がわかりました。あら、ほんとだ。本当に、入り口が二つある祠がありました。

誌面の写真で見ると大きく見えるかもしれませんが、実際はかなり小さな祠です。植え込みのせいもあり見逃してしまいそう。 祠は屋根に苔がビッシリと生えていたものの、祠の入り口は汚れも少なくきれいで、大きな屋根が神様を守っていました。ただ、祠全体は元の姿ではなさそうです。おそらく屋根は後で上から被せたのではないでしょうか。

菅家さんは、植え込みをさらにかき分け、祠の横や後ろに文字などが彫られていないか調べます。彫ってあったのか彫られていなかったのか、もう表面からは判断できないようです。

祠の後ろの山際には大きな水路が通っていました。豊かな水量の水路です。水神に何か関係あるのでしょうか。

みんなそれぞれ手を合わせて、後にしました。

●「水神 山神」と書かれた江戸時代の石祠

次に向かったのは、只見川のすぐ側、柴倉橋のたもとにある祠。高い木々に守られた神聖な場所の感じがします。

外見は普通の祠ですが、赤い布をめくると、そこには先ほどと同じ2つの入り口が。こちらには入り口の上に、山神、水神ときちんと文字が彫られています。この祠を見ると、先ほどの祠ももしかしてこのような形をしていたのかも、と想像してしまいます。

祠の横には「寛政6年(1794年)」ときれいにはっきり彫られています。この時代をちょっと調べてみると、1792年はラクスマンが根室に訪れたり、1793年まで松平定信が寛政の改革を行なっていたり、フランスではフランス革命が行なわれていたり、そんな時代!!当時の人達は、この場所に立ってどんな会話をして何をお願いしたんだろう。そんなことを感じられる祠でした。

●川除地蔵が示す過去の水害の後

最後に行ったのは、川除地蔵。この地蔵がある場所は、川から見ると畑を挟んで少し高い場所にあり、地蔵は川に向かって立っています。今年(令和3年)は平成23年の只見川の水害から10年。この只見地区も水が上がったり、土砂が流れたりと大きな被害がありました。誌面にも書かれていますが、平成23年の水害のときには、目の前の畑に水が上がったとのこと。


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